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研究

コメンタリー

2014/10/06

小野寺五典―一生に一度の防衛大臣―(ロバート・D・エルドリッヂ客員研究員)

9月3日、安倍晋三総理は、任期中盤の自民党与党の幹部の再編成の一環として、新たな閣僚人事を発表した。
多くの国民や外国政府内で彼を評価していた人々が残念がっているが、退任した閣僚の中には小野寺防衛大臣がいた。日本史上在任期間が4番目に長い防衛大臣であり、数多くの成果を収めるた小野寺は、内閣で最も優秀で人望のある1人であった。


本稿において、小野寺大臣の在任中の高評価及び成功の理由について、とりわけ日米の安全保障関係の観点から説明したい。


660日の執務は,特に小野寺のように忙しい人には,大変なように思われるが、なお小野寺は自分の気力と情熱を最後まで維持していた。毎週末、小野寺は、各地の自衛隊の施設を訪れ、基地に勤務する隊員とその家族を激励した。小野寺が訪れた140を超える施設の多くは、以前は、少なくともここ最近は、これほどの来賓による訪問を受けることはなかった。基地訪問を通じて、小野寺は、現場隊の組織に関する質問をしただけではなく、自衛隊の個々人の事情について関心のあることを示す人事事項についても質問した。


小野寺は、制服姿で隊員達を訪問していないときには、東京・市ヶ谷の防衛省での執務、委員会や他の国会の集会への出席をこなしつつ、さらに多くの外国(合計15ヶ国ほど)を訪問した。それは防衛大臣としては最多であり、幾つか挙げると、米国だけでなく、南スーダン、フィリピン、ベトナム、タイ、シンガポール、フランス、オーストリア及びフィンランドをも訪問した。


小野寺は、愛嬌のある人柄、誠実さ、力強さ、そして防衛問題、相互地域安保協力及び訪問先の国が抱える案件に対する彼の関心によって、国内のみならず、海外でも、とりわけ米国の指導者の間で、人気を博した。小野寺の果敢な指導力のお蔭で、多くの意思決定が速くかつ賢明になされ、結果として、防衛政策は適切なものとなり、自衛隊の能力は向上し、米国その他の友好国との関係は深まっていくだろう。


小野寺が築いた最も重要なものは、日本の同盟国・米国との関係である。小野寺は宮城県気仙沼市の出身である。気仙沼市は、2011年3月の東日本大震災で甚大な被害を受けた地域の1つである。彼が、震災により、友人や親戚、出身地の多くのものを失うという悲劇を自ら経験した。小野寺自身は、自国の自衛隊が、在日米軍とともに、揃って震災に対処し、東北が復興を始める支援をするのを見ていたのである。


重要なことだが、彼は、大震災で米国の対応の中心を率いた米国海兵隊と極めて緊密な関係を構築した。海兵隊との関係は、「トモダチ作戦」の後、海兵隊が気仙沼市の離島大島の子供たちが沖縄を訪れ、海兵隊やその家族と生活する年1回のホームステイ企画を立ち上げるとともに、気仙沼市で人気の2012年みなとまつり(2011年は震災により中断)のために,受賞歴のある第三海兵遠征軍音楽隊を気仙沼市に派遣して以降、続いている。海兵隊との関係は、小野寺が日本で最も新しい省である防衛省の長になってから深化を続けていた。米軍指導者たちとの緊密な人的関係は、小野寺の防衛大臣としての成功の秘訣の1つと言えるかもしれない。


ところで、小野寺は、大臣であるだけではなく、1997年に初当選して以来有権者に強く支持された1人の政治家でもある。農業と漁業が盛んな地元の人として、小野寺氏は、宮城県庁に勤めた後、県民のために異なるたちで働くことを決め、大学院、講師を経て、選挙に立候補した。彼は、暖かい家庭の価値観や緊密に結びついた地域社会の再生を公約として掲げた。これは、祖父母、息子と娘、孫の3世代家族が、1つ屋根の下、皆一緒に暮らすのを見たいという小野寺の希望を背景にするものである。


小野寺個人は、自分の目で確認することが重要と信じ、自分自身で物事について調べる人である。彼は、多くの質問をするとともに、聞き手としても知られている。彼の謙虚さは、部下、同僚、相手方、小野寺が会う一般の人の誰からも、一様に評価が高い。彼は、どこにいても、人をくつろいだ気分にさせてくれる。小野寺は、とりわけ、自衛隊の隊員によく好かれていた。それは彼の勇気だけでなく、指導力を通じて、また、隊員を人間として理解しようとしたからである。小野寺氏と隊員の特別に強い絆は、彼が退任した日、防衛省本省庁舎を出るときに、支持者の特に強い取り巻きができたことに見て取れる。そこには小野寺が毎日一緒に働いていた背広組だけでなく、生命と幸福を小野寺の手に預けていた制服組も加わっていた。


小野寺氏は、防衛大臣として職務に真摯に取り組んだため、愛する地元に帰ることは滅多にできなかった。これは彼にとって疑いなく困難な決定だった。震災後1年間、まだ野党の国会議員に過ぎなかった頃、小野寺は、『ニューズウィーク日本版』の取材に応じ、国会が被災地のことを忘れつつあることを心配していると話した。彼の家族の被災した旅館・大鍋屋は、気仙沼港のちょうど隣にあり、大鍋屋を見れば被害をすぐに思い出すことができた。実際に、海が食堂の1階の壁の高さに傷を残した。その食堂は、筆者がかつて小野寺の母親の有名なカレーライスを1杯頂いたところである。傷の付いた壁は、,彼が大臣に指名された日もなお残っていた。小野寺は、今再び、支持者のために直接働く機会を得ることになるのだが、彼の国・日本と世界における実績は、容易に忘れられることはないだろう。


小野寺は、特に日米関係において、防衛大臣に選ばれた人としては、日本史上不世出ではないとしても、一生に一度の人物と言っても言い過ぎではないだろう。だからこそ、2012年9月の自民党総裁選挙において小野寺が安倍を支持しなかったにもかかわらず、安倍総理が同年12月に小野寺を指名する決断をしたことは、実に賢明な判断だった。日本は、この変化の時期に、日本の防衛政策を前に進める必要があるときに、防衛大臣として小野寺がいたことは大変幸運であった。小野寺は、本当によい仕事をした。東北地方でいうところの「お疲れさん」、そして、ありがとう。


そして、小野寺は、彼の下で防衛副大臣を務めた江渡聡徳が後任となったが、安倍政権の安全保障政策や同盟国のアメリカとその他の友好関係のある国々との緊密な相談のもとで日本の戦略的な国益を発展するための基礎を重要に提供した。


エルドリッヂは、「トモダチ作戦」中に仙台の第三海兵遠征旅団前方司令部の政治顧問を務め、現在は東京の世界平和研究所客員研究員である。

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